ウメは、サクラ属の1種で観賞用として、また果実を利用する目的で古くから栽培され、
多くの園芸品種が作り出されている。ここでは植物の分類としては果樹に分類した。
ウメの原産地は、よくわかっておらず、中国の湖北省や四川省であろうといわれているが、
ここでは中国原産とした。なお、大分県や宮崎県でウメが野生化しているところがあり、
これを自生するものと考える説もあるが、日本の洪積世層(約200万年前~1万年前)
からはウメの化石は知られていない。
ウメは、落葉高木で、樹高は10mに達する。
枝は無毛で基本的には斜上あるいは直上してよく伸び若枝は緑色である。
葉は互生し、卵形で長さ5~8㎝で、
先端は鋭尖形で基部は鋭形で、葉縁には2重鋸歯がある。
花芽は1年生枝の節に7~8月ごろに分化する。
基本的には各節に花芽2個と葉芽1個がある。
翌年の2~3月ごろ、葉に先立って開花する。
花はほとんど花柄がなく、径約2.5㎝で芳香がある。
萼は5裂し、褐紫色で、花弁は5枚~多数ある。
雄しべは多数である。果実はほぼ球形の石果で6月に黄熟し、
しばしば紅色を帯びる。
ウメは、花を鑑賞するだけでなく、枝ぶり、
樹形も観賞上重視されることが多い。
果実は加工して食用や薬用にするほか、飲料の材料にも用いる。
古く殷(いん)の遺跡(紀元前14~12世紀)
から発見された銅鼎内からウメの核が見つかっているので、
その時代から生活に利用されていたのは確かである。
時代が下がって前漢~唐代にかけて花が観賞されるようになったと思われる。
日本への渡来は、このころと考えられ、少なくとも「万葉集」
の時代には北九州を中心に植栽されていたことが知られる。
果樹としてのウメについて、食用にする果実を採集するものを実梅(みうめ)
とよんで、観賞用の花梅(はなうめ)と区別している。
果実としての利用は古く、知られる限りでは中国の殷の時代にさかのぼるといわれる。
日本でも渡来当初より果実が利用されてきたと想像されるが、
文献的に実梅の栽培品種が言及されたのは1697年(元禄10)
が最初といわれ、「豊後梅」の名前があげられている。
現在、実梅は果実の形質、花や枝の性状などにより、
普通品種、青軸品種、豊後品種、小梅品種に分けられている。
ウメの園芸品種は、小川安村氏による「性(しよう)」
分類をもとにして、4性ないし3系9性に分けられる。
ここでは3系9性分類(下記分類説明参照)を用いることとする。
なお、ウメの各園芸(栽培)品種の詳細は、
こちら
から、リストを左端に表示して参照して下さい。
五枚目(左)は、1本の木に白と赤の花が共存しており、このようなものを 「
キ メ
ラ 」 といい、
ウメや ボ ケ
、 モモなどバラ科の植物などに比較的よく見られる。
キ メ
ラ
【 chimera 】は、
同一個体内に異なった遺伝情報を持つ細胞が混じることによって起きる。
植物で人工的に作るには接ぎ木をすることにより起きることがあるようである。
本属の仲間は、非常にたくさんあり、
アーモンド 、
サクラ 、
サクラの品種および園芸品種 、
ウメの園芸(栽培)品種 、
シダレウメ 、
ニワウメ 、
モ モ 、
ハナモモ 、
ハナモモ・ゲンペイシダレ 、
ハナモモ・テルテシロ 、
ハナモモ・テルテベニ 、
アンズ などを掲載している。
六枚目(左)は、 Junko さんが、
薬師寺で写した紅梅を、
私に送ってくれたものである。
七枚目(左下)も、 Junko さんが、
「梅の花」のタイトルで、
次のコメントをつけて、私に送ってくれたものである。
『 大阪城公園の梅林へ行ってきました。日差しは暖かい
けど空気は冷たかった! なのに大勢の人でした。梅は
真盛り。良い匂いがあたりに漂いそれだけでも来た甲斐
があると思いました。最初の写真は、かのうぎょくちょう
「
華農玉蝶
」 といってよく見ると花の中にまた花が
あります。3枚目は「
楊貴妃
」ですって!
まだ真っ赤な花や、りょくがく「緑顎」という緑色っぽい
のなど綺麗でした。』
八枚目(左下)は、広島県人さんが、「瀬戸内の春」のタイトルで、
次のコメントをつけて、私に送ってくれたものである。
『 先日今治市岡村島の伝統行事「弓祈祷」を見に行き
ました。我が家の梅はまだまだですがやはり瀬戸内海は
暖かいのでしょう・・・ もう梅の花が咲いていましたよ。』
九枚目(左最下段)は、野の調べさんが、「春の予感」のタイトルで、
次のコメントをつけて、私に送ってくれたものである。
『 節分も過ぎ、まだ寒さは続きますが、春の予感を思わす
ような風景をお届けします。白梅、紅梅が咲き出しました
ほのかに漂う梅の香りに春の息吹きに触れたようでした』
ということで、白梅と紅梅を送ってくれましたが、ここへは紅梅を掲載した。
「紅梅主白梅従」という言葉があり、その言葉について一言のべると。
ウメが日本の文献に現れたのは、「万葉集」からだといわれている。
しかしその文献には花の色はあまり定かでない。
平安遷都に当たり、紫宸殿の南面には、「右近の橘」に対し、
「左近の梅」が植えられたが、その後まもなくサクラの地位が浮上したようで、
左近の梅は40~50年後、吉野のサクラに替えられた。
しかし、梅花への愛着は、紅梅の参入をうけて、
紅梅主白梅従の関係で根強く踏襲され、900年ごろの文献に「紅梅」
の文字が載るなどして残った。ということで、
このころからウメは紅梅主白梅従であったといわれている。